東京国際映画祭公式インタビュー 2026年11月1日
コンペティション部門『問題だらけの花嫁』 →作品詳細

©2026 TIFF
ルバイヤット・ホセイン(監督/脚本)
裕福な家の娘ザイニーンは高級美容サロンの施術を受けながら、婚約から結婚に至る日々を過ごしている。何の不足もないはずの彼女だが、世の中の美の規範に従うことに窮屈さを感じ、心は落ち着かない。彼女は人目を忍んで小さな反抗を繰り返すなか、「女らしさ」や社会階層の制約のもとで生きている自己を自覚し、それらに縛られない生き方を求める。バングラデシュで数少ない女性映画監督のひとり、ルバイヤット・ホセインの長編第4作は、結婚にまつわる南アジアの慣習をフェミニスト的な視点で風刺する一作。体調不良で来日が果たせなかった監督にオンラインで取材した。
──前作の『メイド・イン・バングラデシュ』(19)と『問題だらけの花嫁』では作風が一変しています。どんな心境の変化があったのでしょう。
ルバイヤット・ホセイン監督(以下、ホセイン監督):これまで私が監督してきた作品は、いずれも社会派リアリズムの映画でした。3作目となる『メイド・イン・バングラデシュ』は実話に基づいて縫製工場の労働者に密着し、労働組合を結成する女性の人生をありのままに映し取ったものです。しかし、そうしたリアリズムの手法で映画を作り続けることに、私は監督として少々窮屈さを覚えるようになってきました。それでこの『問題だらけの花嫁』では、より心理的で個人的な題材を扱うことから、題材にふさわしい自由な映像表現を取り入れて、思いっきり想像力を働かせることにしたのです。
──2006年に撮った短編映画を発展させたとうかがっています。長編として完成させるまでどんなプロセスがあったのでしょう。
ホセイン監督:いまお話ししたように、これはとても個人的な物語です。7歳の時に、母が連れて行ってくれたメイフェアという老舗の美容サロンで、このサロンの中で蛇に噛まれて死んだ花嫁の話を耳にしたのが始まりです。バングラデシュの人々は皆、これは実際に起きたことだと信じています。半分、都市伝説みたいな話です。
この話を聞いたとき、私は子どもながらにも花嫁の映像が目に浮かんできたのを覚えています。17~18歳になってその記憶をもとに短編小説を書き、映画監督を志してからは短編映画にしようと試みましたが、当時はうまく行きませんでした。それでもこの話は私の心に残り続け、タイトルを変えては書き直し、様々な助成金へ応募を重ねるうちに、物語は変化していきました。そして最終的に、少女時代に聞いた花嫁の話と私自身の個人的な物語とが織り合わさった作品へと結実しました。予算、理想的なキャスト、技術スタッフなど、すべてが整い、機が熟して映画は実現したのです。
──ザイニーン役のチョウドリー・カリムさんは、ご本人もザイニーンというお名前です。俳優の名前をそのまま役名にしたのはどんな理由からでしょう。
ホセイン監督:『メイド・イン・バングラデシュ』でも、主演のリキタ・ノンディニ・シム(『問題だらけの花嫁』にも出演し、美容サロンの女性従業員ミノティを演じている)に実名で演じてもらいましたし、実はいま執筆中の新作映画でも主演俳優の実名を役名にしています。これは俳優にとっては非常に効果的なことで、俳優は実名で演じることで役柄と心理的に深く同化し、自身の要素をより多く注ぎ込むことができます。もともと、私はまず俳優を決めておき、俳優と一緒に脚本を執筆していきます。彼女とたくさん会話し、個人的な質問をしたり、物語について話してリアクションを見たりし、執筆の過程で俳優自身からキャラクターを作っていくので、実名を使うことは私にとっても彼女にとっても大変自然なことなのです。
──映画は、ザイニーンさんとリキタさんが演じる美容サロンの女性従業員ミノティを中心に展開されます。ふたりの存在を通して、監督はバングラデシュのさまざまな現実を描いています。
ホセイン監督:バングラデシュは非常に階層化された社会であり、ザイニーンは裕福な階層の出身者です。この階層の人々は運転手やメイドなど多くの使用人を雇い、使用人が自分たちに仕えることを当然だと思っています。金銭の対価で奉仕を受ける取引関係です。こうした階層の現実を描きたかったというのがひとつあります。
それと同時に、この国の階層が違う女性同士の関係性も描きたいと思いました。ミノティとザイニーンは同年代ですが同じ境遇にあるわけではなく、ミノティはほとんど母親のようにザイニーンの世話をし、なだめては話を聞かせ、望むものを持ってきてあげます。これもまた階層による違いの表れであり、ザイニーンは自身の内面や想像力、自由に思いを巡らせることができるのに対し、ミノティは通りを歩くためにヒジャブを身につけ、常に誰かに仕えています。わずかな収入を稼ぐために身を粉にして働くミノティの夢は、ザイニーンの夢とは全く異なるものです。それでもふたりには親愛の情があり、ザイニーンはミノティをとても美しいと感じているわけで、両者の関係性はとても複雑です。
このふたりを通して美容サロン特有の現実が垣間見えます。美容サロンでは、客の女性たちは従業員の前で身体を晒し、ボディケアの施術を受け、とても親密になり、プライベートなことまで話します。しかし、そうした関係になっても階層の壁は歴然と存在します。
──母親や美容サロンの女性オーナーに囲まれ、ザイニーンは社会から半分隔離されて生きています。彼女がこうした年上の女性たちに不平を言えないのは、バングラデシュの女性社会にある種のヒエラルキーがあり、女らしさの基準について女性同士の間で同調圧力が働くことの証でしょうか?
ホセイン監督:まさにその通りです。バングラデシュでは、母親であれば人生経験が豊富で賢明であり、「女性としてのあり方」を知っているとされています。そしてサロンはまるで女性を「製造」する工場のようです。すべての女性が同じ髪型、同じ肌、同じ姿に見えるように仕立て上げられます。つまり、母親とサロンのオーナーは女性としての「美」の規範を示し、教えているのです。
それに対して、私はザイニーンの内にある野生的な部分も描こうとしました。人は「野生」の存在として生まれ、社会が男性や女性という枠組みに人を当てはめていくのですが、女性に対してこうした「当てはめ」を行うのは、実は女性自身であることを、ザイニーンの野生的行為との対比で見せたいと考えたのです。女性に「女らしさ」を強要するのは、いつだって男性ではなく女性です。だからこそ、この映画の実質的な悪役は女性たちなのです。
──そこがこの映画の面白いところで、映画に登場する男性たちはみな周縁的な存在です。
ホセイン監督:婚約者や使用人の運転手はむしろ人当たりが良く、ザイニーンにとって大きな脅威にはならないのです。
──映画はアップを多用し、衣装やジュエリーの美しさを強調する一方、爬虫類を映して自然界と人間が作る人工的な美を対比させています。風刺的な意味があるのですか?
ホセイン監督:南アジアやバングラデシュのファッション、ジュエリー、織物は非常に繊細で美しく、女性たちの着飾り方は細部まで凝っています。しかし、その「美」の裏側には多くの醜さや恐怖、苦痛があることを、頭で理解するのでなく身体で感じてほしいと思い、爬虫類などの接写を入れました。爬虫類を見た時に感じる嫌悪感や恐怖、居心地の悪さを、その痛覚と結びつけて呼び覚ましてほしいと考えたのです。
こうした爬虫類はバングラデシュでは日常的によく見かけます。家の中にはヤモリがいて駆除できませんし、湿気が多いため蛇やカタツムリもいます。私は庭のある大きな家で育ち、子供の頃からこうした生き物に魅せられてきたこともあり、室内や庭にいる彼らとサロンの話を結びつけ、美と醜が混淆する不思議な感覚を映画に持ち込みました。
──ザイニーンは物陰に隠れてタバコを吸い、運転手の監視から逃れてひとり公園で憩います。彼女がひとりで過ごす時間を監督はとても大切に撮っていますが、どんな思いでそうされたのでしょう。
ホセイン監督:彼女の個人的な瞬間を描きたかったからです。彼女は何かを懸命に探し求めています。詩を書いているのかもしれませんし、ひとりで内面の世界に深く潜り込んでいます。時に奇妙なものや恐ろしいものを目にしながら、社会の外側に自分だけの居場所を作ろうとします。社会から逃れて別の世界へ向かおうとしている瞬間なのです。
──社会への挑発として、ザイニーンの最後の行為を描いたのでしょうか?
ホセイン監督:ザイニーンは本来の自己を取り戻し、世の中の美の規範など知ったことではないと意思表示をします。そして公共の空間へと足を踏み出します。現代の消費社会において、美はあたかも「選択の自由」や「エンパワーメント」として提示されます。「美しければ愛されて、家庭や子どもを持てる。美しくなければ孤独死し、母親にも妻にもなれない」という強迫観念です。これは非常に大きな脅威であり、だからこそ女性たちは型に収まろうとします。誰しも愛されたいし、家族が欲しい、ひとりになりたくないからです。ザイニーンにとって、これは非常に深遠な決断です。彼女は踏み出した未知の世界で孤独になるかもしれず、この先どうなるかも分かりません。そうした息が詰まるほどの抑圧の中で、彼女が選択した行為は、まさに自己と社会への挑発と言って差し支えのないものです。
──撮影監督のレオノール・テレスは映画監督としても大変有望視されており、先月、都内で開催されたポルトガル映画のイベントに合わせて来日もされました。彼女が本作にどう関わったのか教えてください。
ホセイン監督:レオノールは日本が大好きで、先月、訪日できたのをとても喜んでいましたよ(笑)。ポルトガルのプロデューサーの紹介でZoomで話した後、彼女は脚本を読んで参加を希望してくれ、私は彼女がタイで撮影し、ロカルノ映画祭に出品した16ミリの長編デビュー作『Baan』(23)を観て、適任だと確信しました。レオノールは照明を使ってムードや感情を巧みに作り出すことができ、感情を詩的に表現することに長けています。現場での彼女は極めて聡明で、従来の映画とは異なる手法で女性を捉えるため、私たちはローラ・マルヴィ、ベル・フックス、リュス・イリガライなどの文献を読み、視覚的快楽や男性のまなざし、新たなまなざしの構築について議論しました。現場に入ると、彼女は私が求めていたものの80%近くまで形にしてくれ、多くを語らずとも私の意図を深く理解してくれました。女性をどのように描くべきかという政治的なスタンスにおいても、私たちは完全に一致していました。
──お身体が早く回復されることを祈っています。
ホセイン監督:ありがとうございます。東京には素晴らしい観客がたくさんいらっしゃいますし、この映画はとても個人的で観客の皆さんと共有したいことがたくさんあったので、行けなかったことが本当に名残惜しくて悲しいです。でも、この取材記事が公開されたら、観客の皆さんにもきっと私の思いが伝わると思います。素晴らしい質問をしていただき、ありがとうございました。
インタビュー/構成:赤塚成人(四月社)
東京国際映画祭公式インタビュー 2026年11月1日
コンペティション部門『問題だらけの花嫁』 →作品詳細

©2026 TIFF
ルバイヤット・ホセイン(監督/脚本)
裕福な家の娘ザイニーンは高級美容サロンの施術を受けながら、婚約から結婚に至る日々を過ごしている。何の不足もないはずの彼女だが、世の中の美の規範に従うことに窮屈さを感じ、心は落ち着かない。彼女は人目を忍んで小さな反抗を繰り返すなか、「女らしさ」や社会階層の制約のもとで生きている自己を自覚し、それらに縛られない生き方を求める。バングラデシュで数少ない女性映画監督のひとり、ルバイヤット・ホセインの長編第4作は、結婚にまつわる南アジアの慣習をフェミニスト的な視点で風刺する一作。体調不良で来日が果たせなかった監督にオンラインで取材した。
──前作の『メイド・イン・バングラデシュ』(19)と『問題だらけの花嫁』では作風が一変しています。どんな心境の変化があったのでしょう。
ルバイヤット・ホセイン監督(以下、ホセイン監督):これまで私が監督してきた作品は、いずれも社会派リアリズムの映画でした。3作目となる『メイド・イン・バングラデシュ』は実話に基づいて縫製工場の労働者に密着し、労働組合を結成する女性の人生をありのままに映し取ったものです。しかし、そうしたリアリズムの手法で映画を作り続けることに、私は監督として少々窮屈さを覚えるようになってきました。それでこの『問題だらけの花嫁』では、より心理的で個人的な題材を扱うことから、題材にふさわしい自由な映像表現を取り入れて、思いっきり想像力を働かせることにしたのです。
──2006年に撮った短編映画を発展させたとうかがっています。長編として完成させるまでどんなプロセスがあったのでしょう。
ホセイン監督:いまお話ししたように、これはとても個人的な物語です。7歳の時に、母が連れて行ってくれたメイフェアという老舗の美容サロンで、このサロンの中で蛇に噛まれて死んだ花嫁の話を耳にしたのが始まりです。バングラデシュの人々は皆、これは実際に起きたことだと信じています。半分、都市伝説みたいな話です。
この話を聞いたとき、私は子どもながらにも花嫁の映像が目に浮かんできたのを覚えています。17~18歳になってその記憶をもとに短編小説を書き、映画監督を志してからは短編映画にしようと試みましたが、当時はうまく行きませんでした。それでもこの話は私の心に残り続け、タイトルを変えては書き直し、様々な助成金へ応募を重ねるうちに、物語は変化していきました。そして最終的に、少女時代に聞いた花嫁の話と私自身の個人的な物語とが織り合わさった作品へと結実しました。予算、理想的なキャスト、技術スタッフなど、すべてが整い、機が熟して映画は実現したのです。
──ザイニーン役のチョウドリー・カリムさんは、ご本人もザイニーンというお名前です。俳優の名前をそのまま役名にしたのはどんな理由からでしょう。
ホセイン監督:『メイド・イン・バングラデシュ』でも、主演のリキタ・ノンディニ・シム(『問題だらけの花嫁』にも出演し、美容サロンの女性従業員ミノティを演じている)に実名で演じてもらいましたし、実はいま執筆中の新作映画でも主演俳優の実名を役名にしています。これは俳優にとっては非常に効果的なことで、俳優は実名で演じることで役柄と心理的に深く同化し、自身の要素をより多く注ぎ込むことができます。もともと、私はまず俳優を決めておき、俳優と一緒に脚本を執筆していきます。彼女とたくさん会話し、個人的な質問をしたり、物語について話してリアクションを見たりし、執筆の過程で俳優自身からキャラクターを作っていくので、実名を使うことは私にとっても彼女にとっても大変自然なことなのです。
──映画は、ザイニーンさんとリキタさんが演じる美容サロンの女性従業員ミノティを中心に展開されます。ふたりの存在を通して、監督はバングラデシュのさまざまな現実を描いています。
ホセイン監督:バングラデシュは非常に階層化された社会であり、ザイニーンは裕福な階層の出身者です。この階層の人々は運転手やメイドなど多くの使用人を雇い、使用人が自分たちに仕えることを当然だと思っています。金銭の対価で奉仕を受ける取引関係です。こうした階層の現実を描きたかったというのがひとつあります。
それと同時に、この国の階層が違う女性同士の関係性も描きたいと思いました。ミノティとザイニーンは同年代ですが同じ境遇にあるわけではなく、ミノティはほとんど母親のようにザイニーンの世話をし、なだめては話を聞かせ、望むものを持ってきてあげます。これもまた階層による違いの表れであり、ザイニーンは自身の内面や想像力、自由に思いを巡らせることができるのに対し、ミノティは通りを歩くためにヒジャブを身につけ、常に誰かに仕えています。わずかな収入を稼ぐために身を粉にして働くミノティの夢は、ザイニーンの夢とは全く異なるものです。それでもふたりには親愛の情があり、ザイニーンはミノティをとても美しいと感じているわけで、両者の関係性はとても複雑です。
このふたりを通して美容サロン特有の現実が垣間見えます。美容サロンでは、客の女性たちは従業員の前で身体を晒し、ボディケアの施術を受け、とても親密になり、プライベートなことまで話します。しかし、そうした関係になっても階層の壁は歴然と存在します。
──母親や美容サロンの女性オーナーに囲まれ、ザイニーンは社会から半分隔離されて生きています。彼女がこうした年上の女性たちに不平を言えないのは、バングラデシュの女性社会にある種のヒエラルキーがあり、女らしさの基準について女性同士の間で同調圧力が働くことの証でしょうか?
ホセイン監督:まさにその通りです。バングラデシュでは、母親であれば人生経験が豊富で賢明であり、「女性としてのあり方」を知っているとされています。そしてサロンはまるで女性を「製造」する工場のようです。すべての女性が同じ髪型、同じ肌、同じ姿に見えるように仕立て上げられます。つまり、母親とサロンのオーナーは女性としての「美」の規範を示し、教えているのです。
それに対して、私はザイニーンの内にある野生的な部分も描こうとしました。人は「野生」の存在として生まれ、社会が男性や女性という枠組みに人を当てはめていくのですが、女性に対してこうした「当てはめ」を行うのは、実は女性自身であることを、ザイニーンの野生的行為との対比で見せたいと考えたのです。女性に「女らしさ」を強要するのは、いつだって男性ではなく女性です。だからこそ、この映画の実質的な悪役は女性たちなのです。
──そこがこの映画の面白いところで、映画に登場する男性たちはみな周縁的な存在です。
ホセイン監督:婚約者や使用人の運転手はむしろ人当たりが良く、ザイニーンにとって大きな脅威にはならないのです。
──映画はアップを多用し、衣装やジュエリーの美しさを強調する一方、爬虫類を映して自然界と人間が作る人工的な美を対比させています。風刺的な意味があるのですか?
ホセイン監督:南アジアやバングラデシュのファッション、ジュエリー、織物は非常に繊細で美しく、女性たちの着飾り方は細部まで凝っています。しかし、その「美」の裏側には多くの醜さや恐怖、苦痛があることを、頭で理解するのでなく身体で感じてほしいと思い、爬虫類などの接写を入れました。爬虫類を見た時に感じる嫌悪感や恐怖、居心地の悪さを、その痛覚と結びつけて呼び覚ましてほしいと考えたのです。
こうした爬虫類はバングラデシュでは日常的によく見かけます。家の中にはヤモリがいて駆除できませんし、湿気が多いため蛇やカタツムリもいます。私は庭のある大きな家で育ち、子供の頃からこうした生き物に魅せられてきたこともあり、室内や庭にいる彼らとサロンの話を結びつけ、美と醜が混淆する不思議な感覚を映画に持ち込みました。
──ザイニーンは物陰に隠れてタバコを吸い、運転手の監視から逃れてひとり公園で憩います。彼女がひとりで過ごす時間を監督はとても大切に撮っていますが、どんな思いでそうされたのでしょう。
ホセイン監督:彼女の個人的な瞬間を描きたかったからです。彼女は何かを懸命に探し求めています。詩を書いているのかもしれませんし、ひとりで内面の世界に深く潜り込んでいます。時に奇妙なものや恐ろしいものを目にしながら、社会の外側に自分だけの居場所を作ろうとします。社会から逃れて別の世界へ向かおうとしている瞬間なのです。
──社会への挑発として、ザイニーンの最後の行為を描いたのでしょうか?
ホセイン監督:ザイニーンは本来の自己を取り戻し、世の中の美の規範など知ったことではないと意思表示をします。そして公共の空間へと足を踏み出します。現代の消費社会において、美はあたかも「選択の自由」や「エンパワーメント」として提示されます。「美しければ愛されて、家庭や子どもを持てる。美しくなければ孤独死し、母親にも妻にもなれない」という強迫観念です。これは非常に大きな脅威であり、だからこそ女性たちは型に収まろうとします。誰しも愛されたいし、家族が欲しい、ひとりになりたくないからです。ザイニーンにとって、これは非常に深遠な決断です。彼女は踏み出した未知の世界で孤独になるかもしれず、この先どうなるかも分かりません。そうした息が詰まるほどの抑圧の中で、彼女が選択した行為は、まさに自己と社会への挑発と言って差し支えのないものです。
──撮影監督のレオノール・テレスは映画監督としても大変有望視されており、先月、都内で開催されたポルトガル映画のイベントに合わせて来日もされました。彼女が本作にどう関わったのか教えてください。
ホセイン監督:レオノールは日本が大好きで、先月、訪日できたのをとても喜んでいましたよ(笑)。ポルトガルのプロデューサーの紹介でZoomで話した後、彼女は脚本を読んで参加を希望してくれ、私は彼女がタイで撮影し、ロカルノ映画祭に出品した16ミリの長編デビュー作『Baan』(23)を観て、適任だと確信しました。レオノールは照明を使ってムードや感情を巧みに作り出すことができ、感情を詩的に表現することに長けています。現場での彼女は極めて聡明で、従来の映画とは異なる手法で女性を捉えるため、私たちはローラ・マルヴィ、ベル・フックス、リュス・イリガライなどの文献を読み、視覚的快楽や男性のまなざし、新たなまなざしの構築について議論しました。現場に入ると、彼女は私が求めていたものの80%近くまで形にしてくれ、多くを語らずとも私の意図を深く理解してくれました。女性をどのように描くべきかという政治的なスタンスにおいても、私たちは完全に一致していました。
──お身体が早く回復されることを祈っています。
ホセイン監督:ありがとうございます。東京には素晴らしい観客がたくさんいらっしゃいますし、この映画はとても個人的で観客の皆さんと共有したいことがたくさんあったので、行けなかったことが本当に名残惜しくて悲しいです。でも、この取材記事が公開されたら、観客の皆さんにもきっと私の思いが伝わると思います。素晴らしい質問をしていただき、ありがとうございました。
インタビュー/構成:赤塚成人(四月社)