2026.11.04 [インタビュー]
「彼は私にとって神からの贈り物のような人でした」アジアの未来部門『紙の花』公式インタビュー

東京国際映画祭公式インタビュー 2026年10月31日
アジアの未来部門『紙の花』 →作品詳細
紙の花

©2026 TIFF

プレーマー・チェリヤン(プロデューサー・左)、アディータ・チェリヤン(監督の娘・右)

 

映画美術の仕事をしているパラはブックフェアのバイトに行く途中で、中学生のころに失恋したラーダーを見かける。ラーダーもブックフェアで働いていたのだ。会期中になんとかきっかけを作って自分を思い出してもらおうとするパラだったが…。珠玉の恋物語を監督したのは、撮影監督として15本のタミル語映画に携わってきたチェリヤン。本作でも脚本、撮影、キャスティング、美術も手がけたが、惜しくも2026年7月に逝去された。実生活のパートナーでもあったプロデューサーのプレーマー・チェリヤンさんが、監督の人となりや撮影の背景について語ってくれた。

 

 

──パートナーでもあった監督はどんな方でしたか?

 

プレーマー・チェリヤン(以下、チェリヤン):彼は私にとって神からの贈り物のような人です。とても穏やかで物静かな人でした。ドストエフスキーが好きでいつも読書か執筆をしていて、絵も描いていました。作家で音楽家でもあり、ピアノをとても上手に弾きました。地元の雑誌で3年間、週刊連載で世界の映画についての記事を書いていて、良い映画を選んでレビューしたり人前で話したりしていました。最近その記事を1冊の本にまとめて出版したんです。
紙の花

 

──作品からとてもロマンチストな方なんじゃないかと思ったんですけれど。

 

チェリヤン:ええ、とてもロマンチックな人でした。私は第8学年(日本では中学2年生)の時に、初めて彼に出会いました。彼は土木工学の学士号を持っていてもう働いていて、同じ会社に私の従兄もいたんです。それで出会いました。9歳上でした。

 

──監督ご自身がこの映画の主人公みたいな方だったんですか。

 

チェリヤン:この主人公のように穏やかで、本をたくさん読む人でした。ブックフェアがとても好きでした。一度、私をブックフェアに連れて行ってくれたことがありました。私はある本が欲しいと言ったのですが、その時はお金がありませんでした。彼はとても胸を痛めて、家に帰ってから「あの本どころか、そのうち君に書店のブースごと買ってあげるよ」と言ってくれたんです。そして実際にそうなりました。数年後、彼のすべての音楽の本やそのほかの本で、ブックフェアにブースを出したのです。

 

──本当に映画みたいですね。全体の美術だけでなく、映画で使用されたアートワークも監督ご自身がご用意なさったんですか。

 

チェリヤン:そうです。

 

──非常に印象的だったのが色使いです。テーマの花であるブーゲンビリアと同じピンク色が、ラーダーの衣装だけでなく、ブックフェアのチケットや書店のブースの幕、さらには通行人のおじいさんのサロンにまで使われていました。これは意図的な配色なのでしょうか?

 

チェリヤン:はい、意図的なものでした。監督は、彼らが会う時や触れ合う時にはいつでもその色をシンボルにしたいと考えていました。ですからその花を見た時に、彼らの愛に関連するものだと分かるようにしたのです。

 

──バスまでピンク色だったんですが、あれは?

 

チェリヤン:この街のバスはあんな感じでピンク色のバスもあるんですよ。市内バスです。

 

──キャスティングはどのように決まっていったんでしょうか。

 

チェリヤン:男性の主人公は、カメラマン助手として働いていた人です。監督は新しい人を起用するのが好きで、大スターを使うのを好みませんでした。型にはまった俳優だと自分の思い描くイメージに影響を与えてしまうと考えていたため、身近なところで人を探していて、常に新しい顔ぶれを選んで自然に演技できるように教えていたんです。女性の主人公はオーディションで選びました。

 

──主人公のカップルのほかにもユニークな登場人物がいましたね。毎日のようにカタログをもらいにくるおじいさんとか。あの方はどういう人だったんでしょうか。

 

チェリヤン:監督は長年にわたってよくブックフェアに通っていたので、そこで得た観察から現実の人物に似たキャラクターが生まれたのだと思います。リアルな雰囲気を作り出すために、こういうキャラクターを登場させるのです。監督はどこにいても周囲をよく観察していて、いろいろな人々をどのように映画に組みこめるか考えていました。
紙の花

 

──あの方は俳優さんですか?

 

チェリヤン:監督の友人です。アレックスさんという方で、演技をするのは初めてでした。監督の本を全部読んでくれていたファンで、事務所にもよく会いに来ていた人でした。先ほど言ったように、監督は周囲の普通の人々に可能性を見出していたので、この役を考えた時に「この人だ!」となったのです。アレックスさんは監督にとても傾倒していて、監督が亡くなった後に私に会って、代わりに自分こそが逝くべきだったとまで言ってくれました。「これからは誰と話をすればいいんだ。先生なら何でも親切に説明してくれたのに」と、とても悲しがっていました。彼を含め多くの人々が、想いを共有できる人がいなくなってしまったと感じていました。監督はあらゆるものを独自の視点から見ていたからです。とてもオープンで、周囲の人たちを育てることに非常に前向きで、脚本を持って人々が訪ねてくると、時間がなくても必ず目を通して助言したりしていました。インディペンデント映画制作者のための映画学校も開いていました。毎週末オンラインで授業をして、最後に短編映画を撮影するような実践クラスも行っていました。海外から受講する人もいて、100人以上の生徒がいました。34人の生徒が脚本や映画のアイデアを生み出して、それらを紹介するイベントも行いました。

 

──2000ページの音楽の本も書かれたということですが、ご家族で監督の創作物についてお話をすることもあったんでしょうか。あるいは、読んだ本とか楽しんだ映画について会話するようなことはよくあったのでしょうか?

 

チェリヤン:彼が書いたものを最初に読むのは私でした。彼の脚本を読んでこうしたらどうかとアイデアを伝えていました。それから、娘も一緒に家族みんなで、外部の視点から見てどう感じるか、どのように伝わるかを話し合いました。映画が完成した時も、家に帰ってきて最初に私たちに見せてくれました。よく、「これを観なさい」と『自転車泥棒』や『おばあちゃんの家』のような映画を勧めてくれました。いい音楽を聴くようにとも言っていて、10巻全部で2000ページになる西洋音楽の包括的な音楽理論の本をタミル語で出しました。

 

──それは大変なお仕事ですね。

 

チェリヤン:監督は人に教えるのが好きで、自分の知識を共有したいと考えていました。そのため私たちは2014年から音楽学校も運営していたんですが、2020年のロックダウンの時期に閉校したんです。先ほどお話しした10巻の音楽の本は「The Music School」という題で出版しました。

 

──監督は、映画も撮りながら音楽も教えていらしたんですか?

 

チェリヤン:いいえ、私が授業を担当して音楽理論、記譜法を教えていました。

 

──監督が亡くなられた今、ほかの監督ともその制作会社で映画を作るご予定はあるんでしょうか?

 

チェリヤン:彼が半分まで完成させた映画が1本あるので、残りを完成させることが現時点での最優先事項になります。夫は23本もの脚本を遺していますので、ほかの監督の映画をプロデュースする前に、まずは彼の脚本を形にしたいのですが、問題は相応しい監督を見つけることです。彼の脚本を映画化するために、タミル映画界の巨匠であるP・C・シュリーラームさんやA・シュリーカル・プラサードさんたちがサポートを申し出てくれています。プラサードさんは彼の映画をすべて編集してくれた方で、シュリーラームさんは彼が映画界に入った当初のメンターでした。ふたりとも業界のレジェンドであり、自分の映画作りに誠実だった夫をとても気に入ってくれていたのです。また、先ほどお話しした彼の映画学校の生徒34人のうち、すでに5人が映画を完成させています。残りの制作者たちの作品も私がサポートしていきますし、この映画学校も引き続き運営していくつもりです。

 

インタビュー/構成:遠藤京子(日本映画ペンクラブ)
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