東京国際映画祭公式インタビュー 2026年11月1日
コンペティション部門『ふたつの自由』 →作品詳細

ホアン・メンデス(共同脚本)
人里離れた森の中で自給自足の生活を送ってきたミサエル。しかし、姉のミカエラが入所していた精神療養施設の閉鎖に伴い、彼女を引き取って面倒を見ねばならないことになる。自然の中でひとり自由を享受してきたミサエルの生活は、姉との暮らしの中で変化を迎えることになるが…。
物語を極限まで削ぎ落とし、社会から孤立して生きる人間を一貫して描いてきたリサンドロ・アロンソ監督の最新作。今回共同脚本を担ったホアン・メンデスから、物語の深みに触れる言葉を聞いた。
──『ふたつの自由』はリサンドロ・アロンソ監督の長編デビュー作『La Libertad』(01)の続編的な映画とのことですが、どういう経緯で生まれてきた作品なのでしょうか。
ホアン・メンデス(以下、メンデス):本作の脚本の開発が始まったのは、リサンドロが映画『Eureka』の撮影を終え、公開を控えていた時期でした。『Eureka』(23)は5か国にまたがる大人数のチームで製作された大規模な作品で、映画自体は素晴らしいものですが、撮影中には色々なことがあり、とても過酷な経験でもありました。
リサンドロ自身は、もっとシンプルな語り口に戻りたいと考えていました。また彼には、最初の題材であったミサエルのもとへ戻りたいという構想がずっとありました。リサンドロとミサエル、お互いにとって『La Libertad』の経験は新たな発見でもあったため、15年後、20年後、そして最終的に25年後の「ミサエルの生活がどうなっているのか」を見届けたいと考えたのです。
シナリオの設定は極めてシンプルです。森の中で25年間働いてきたミサエルが、入院していた姉の退院に伴い、彼女の面倒を見なければならなくなるというアイデアをもとに私たちは執筆を始め、脚本を練り上げました。これは単にミサエルと再会するための手段であるだけでなく、現代を生きる多くの人が直面している問題、つまり家族に精神疾患や精神医学的な問題を抱える人がいるとき、その悲痛にどう向き合うのか、何か手助けができるのか、という問いを扱っています。私たち自身や身近な人々に起きた出来事を通じて、ミサエルが姉のために何ができるのか、そして人がそうした状況で何をしてあげられるのかという問いを追究しました。
果てしない森の空間にいるミサエルと、閉鎖的な空間にいた姉という、全く異なる背景を持つふたつの世界が衝突します。執筆当初の構想では、作品のトーンはかなり暗く悲劇的なものでした。私たちは姉の登場を、ミサエルの人生に悲劇をもたらすドラマとして描いていたのです。しかし撮影現場で、素人でありながら素晴らしい演技者であるミサエルと、プロの女優のカタリナによって物語が演じられる中で、ベースは変わらずとも全く異なる広がりが生まれてきたのです。そして最終的には非常に明るい光を放つ作品へと変わっていきました。

──最初に書いたシナリオと、今私たちが観ている映画は大きく違っているのですか。
メンデス:決定稿から映画が大きく変わったわけではありません。個人的な経験を持ち寄りながら対話を重ねる中で、当初は気づかなかったニュアンスが見えてきたのです。
入院患者を荒野へ連れて行くことは決して簡単なことではない。病院のシークエンスでミサエルは施設長から「油断してはいけない」「彼女の面倒を見なければいけない」「完治することはない」「薬は1か月しか持たないから毎月通わなければならない」と告げられます。ミサエルは自分の自由を脅かされるわけです。
しかし、描き進めるうちに、私たちは「自由を脅かされるミサエル」ではなく、「自由を手に入れていくミカエラ」の姿を見出しました。ミサエルが姉にどう接するかだけでなく、ミカエラがミサエルや森という荒野にどう反応するのか、つまりふたりの旅路を追う物語へと変化していったのです。
それに伴い、物語のトーンがより明るくなりました。ミカエラが植物に水をやるジョウロを手に取る姿や、ミサエルが買ってきたファンタを飲む姿など、彼女の生き生きとした姿を見ることができます。彼女は長い間炭酸飲料なんて飲んでいなかったはずです。そこには、大げさなものではないですが、ミサエルが彼女を気遣う一貫した仕草が描かれています。
そこから自然にユーモアが生まれてきました。ミカエラが「これ全部あなたのもの?」と尋ねたときに、明らかにそんな余裕のないミサエルが「いや、自分のではないよ」とちゃんと敬意を持って答えたり、鳥の声を聞いて「歓迎してくれている」と言う彼女に「そうかもしれないね」と返したりします。アルゼンチンには「マテ茶とハグで病気は治せない」という表現がありますが、お茶や抱擁だけで人を癒やすことはできなくても、ふたりのやり取りには温かみとユーモアが宿っていきました。
──施設で生活していたミカエラは、公的資金の打ち切りによって行き場を失ってしまいます。施設長のセリフに、患者を覚醒させないために薬を投与し続けるという話もありました。これはアルゼンチンの社会で実際に起きていることを物語に込めたのでしょうか?
メンデス:はい、現実の反映です。国家が責任を放棄して支援を引き揚げ、個人が自助努力を強いられる、公的支援の削減や医療崩壊といった問題はアルゼンチンのみならず南米や世界各地で起きています。リサーチを進める中でも、患者が外部へ追放されていくプロセスを目の当たりにしました。
ただ、映画内の描写は特定の制度を一方的に告発するものではありません。政策による決定が、患者たちの家族にいかに深刻な影響を及ぼすかを描こうとしました。現場の医師や看護師たちは、極端な人手不足の中でも懸命に対応していました。私たちは精神医療の現状を単純に糾弾したかったのではなく、政府の決定が家族に及ぼす影響を理解しようとしたのです。劇中で描かれた施設や会話はあくまで劇映画としてのフィクションですが、背景にある問題意識は現実に基づいています。
──撮影の初期段階では、実際の施設の様子を撮影されていたのですか?
メンデス:許可をもらってロケハンは行いましたが、施設内での本編撮影は行っていません。劇中の会話もすべてフィクションです。
──ハビエル・ミレイ政権による緊縮財政や医療費削減が進む現在の状況と重ねて観てしまいますが、そうした社会情勢を意識してこの物語を作られたのでしょうか?
メンデス:無意識ではありませんが、政治的な告発を意図したものでもありません。脚本の執筆自体は現政権の発足前から始めていました。例えばミサエルがラジオを聞くシーンで、ニュースではなく「コパカバーナ」の曲を聴いているように、政治家たちが配慮もなく下した決定によって、市井の人々が何の説明も支援もないまま困難に直面させられる現実があります。その影響を、ミサエルとミカエラの物語を通して描いています。

──時計が映画の中で印象的な小道具として使われていましたね。
メンデス:私たちの意図としては、ミサエルが見失っていたものをミカエラが取り戻させる、という象徴として時計を配置しました。ミサエルは森のどこに何があるか道具の場所はすべて把握していますが、ミカエラが鳥たちに対して抱くような視点は持っていません。同じ場所にいながら、ふたりは異なるものを見ているのです。
また、ミカエラが「今何時?」と繰り返し尋ねるやり取りは、子どもの悪戯のようなものでもあります。ミカエラ自身が時計を持っていて時間を知っているにもかかわらず、弟をからかうように時間を聞き続けるという、ふたりの関係性を示すモチーフです。
──原題・英題は“La Libertad Doble / Double Freedom”です。“Two”ではなく“Double”とした意図は。
メンデス:種明かしをしてしまうのは避けたいところですが、解釈の余地を残したタイトルです。観客によって、ラストで去っていくミカエラを見て不吉な予感を抱く人もいれば、その日の午後にはまたふたりが一緒に戻ってくるだろうと考える人もいるでしょう。映画が観客の中に何を呼び起こすかという解釈に委ねられています。
インタビュー/構成:岩槻 歩(「映画芸術」編集部)
東京国際映画祭公式インタビュー 2026年11月1日
コンペティション部門『ふたつの自由』 →作品詳細

ホアン・メンデス(共同脚本)
人里離れた森の中で自給自足の生活を送ってきたミサエル。しかし、姉のミカエラが入所していた精神療養施設の閉鎖に伴い、彼女を引き取って面倒を見ねばならないことになる。自然の中でひとり自由を享受してきたミサエルの生活は、姉との暮らしの中で変化を迎えることになるが…。
物語を極限まで削ぎ落とし、社会から孤立して生きる人間を一貫して描いてきたリサンドロ・アロンソ監督の最新作。今回共同脚本を担ったホアン・メンデスから、物語の深みに触れる言葉を聞いた。
──『ふたつの自由』はリサンドロ・アロンソ監督の長編デビュー作『La Libertad』(01)の続編的な映画とのことですが、どういう経緯で生まれてきた作品なのでしょうか。
ホアン・メンデス(以下、メンデス):本作の脚本の開発が始まったのは、リサンドロが映画『Eureka』の撮影を終え、公開を控えていた時期でした。『Eureka』(23)は5か国にまたがる大人数のチームで製作された大規模な作品で、映画自体は素晴らしいものですが、撮影中には色々なことがあり、とても過酷な経験でもありました。
リサンドロ自身は、もっとシンプルな語り口に戻りたいと考えていました。また彼には、最初の題材であったミサエルのもとへ戻りたいという構想がずっとありました。リサンドロとミサエル、お互いにとって『La Libertad』の経験は新たな発見でもあったため、15年後、20年後、そして最終的に25年後の「ミサエルの生活がどうなっているのか」を見届けたいと考えたのです。
シナリオの設定は極めてシンプルです。森の中で25年間働いてきたミサエルが、入院していた姉の退院に伴い、彼女の面倒を見なければならなくなるというアイデアをもとに私たちは執筆を始め、脚本を練り上げました。これは単にミサエルと再会するための手段であるだけでなく、現代を生きる多くの人が直面している問題、つまり家族に精神疾患や精神医学的な問題を抱える人がいるとき、その悲痛にどう向き合うのか、何か手助けができるのか、という問いを扱っています。私たち自身や身近な人々に起きた出来事を通じて、ミサエルが姉のために何ができるのか、そして人がそうした状況で何をしてあげられるのかという問いを追究しました。
果てしない森の空間にいるミサエルと、閉鎖的な空間にいた姉という、全く異なる背景を持つふたつの世界が衝突します。執筆当初の構想では、作品のトーンはかなり暗く悲劇的なものでした。私たちは姉の登場を、ミサエルの人生に悲劇をもたらすドラマとして描いていたのです。しかし撮影現場で、素人でありながら素晴らしい演技者であるミサエルと、プロの女優のカタリナによって物語が演じられる中で、ベースは変わらずとも全く異なる広がりが生まれてきたのです。そして最終的には非常に明るい光を放つ作品へと変わっていきました。

──最初に書いたシナリオと、今私たちが観ている映画は大きく違っているのですか。
メンデス:決定稿から映画が大きく変わったわけではありません。個人的な経験を持ち寄りながら対話を重ねる中で、当初は気づかなかったニュアンスが見えてきたのです。
入院患者を荒野へ連れて行くことは決して簡単なことではない。病院のシークエンスでミサエルは施設長から「油断してはいけない」「彼女の面倒を見なければいけない」「完治することはない」「薬は1か月しか持たないから毎月通わなければならない」と告げられます。ミサエルは自分の自由を脅かされるわけです。
しかし、描き進めるうちに、私たちは「自由を脅かされるミサエル」ではなく、「自由を手に入れていくミカエラ」の姿を見出しました。ミサエルが姉にどう接するかだけでなく、ミカエラがミサエルや森という荒野にどう反応するのか、つまりふたりの旅路を追う物語へと変化していったのです。
それに伴い、物語のトーンがより明るくなりました。ミカエラが植物に水をやるジョウロを手に取る姿や、ミサエルが買ってきたファンタを飲む姿など、彼女の生き生きとした姿を見ることができます。彼女は長い間炭酸飲料なんて飲んでいなかったはずです。そこには、大げさなものではないですが、ミサエルが彼女を気遣う一貫した仕草が描かれています。
そこから自然にユーモアが生まれてきました。ミカエラが「これ全部あなたのもの?」と尋ねたときに、明らかにそんな余裕のないミサエルが「いや、自分のではないよ」とちゃんと敬意を持って答えたり、鳥の声を聞いて「歓迎してくれている」と言う彼女に「そうかもしれないね」と返したりします。アルゼンチンには「マテ茶とハグで病気は治せない」という表現がありますが、お茶や抱擁だけで人を癒やすことはできなくても、ふたりのやり取りには温かみとユーモアが宿っていきました。
──施設で生活していたミカエラは、公的資金の打ち切りによって行き場を失ってしまいます。施設長のセリフに、患者を覚醒させないために薬を投与し続けるという話もありました。これはアルゼンチンの社会で実際に起きていることを物語に込めたのでしょうか?
メンデス:はい、現実の反映です。国家が責任を放棄して支援を引き揚げ、個人が自助努力を強いられる、公的支援の削減や医療崩壊といった問題はアルゼンチンのみならず南米や世界各地で起きています。リサーチを進める中でも、患者が外部へ追放されていくプロセスを目の当たりにしました。
ただ、映画内の描写は特定の制度を一方的に告発するものではありません。政策による決定が、患者たちの家族にいかに深刻な影響を及ぼすかを描こうとしました。現場の医師や看護師たちは、極端な人手不足の中でも懸命に対応していました。私たちは精神医療の現状を単純に糾弾したかったのではなく、政府の決定が家族に及ぼす影響を理解しようとしたのです。劇中で描かれた施設や会話はあくまで劇映画としてのフィクションですが、背景にある問題意識は現実に基づいています。
──撮影の初期段階では、実際の施設の様子を撮影されていたのですか?
メンデス:許可をもらってロケハンは行いましたが、施設内での本編撮影は行っていません。劇中の会話もすべてフィクションです。
──ハビエル・ミレイ政権による緊縮財政や医療費削減が進む現在の状況と重ねて観てしまいますが、そうした社会情勢を意識してこの物語を作られたのでしょうか?
メンデス:無意識ではありませんが、政治的な告発を意図したものでもありません。脚本の執筆自体は現政権の発足前から始めていました。例えばミサエルがラジオを聞くシーンで、ニュースではなく「コパカバーナ」の曲を聴いているように、政治家たちが配慮もなく下した決定によって、市井の人々が何の説明も支援もないまま困難に直面させられる現実があります。その影響を、ミサエルとミカエラの物語を通して描いています。

──時計が映画の中で印象的な小道具として使われていましたね。
メンデス:私たちの意図としては、ミサエルが見失っていたものをミカエラが取り戻させる、という象徴として時計を配置しました。ミサエルは森のどこに何があるか道具の場所はすべて把握していますが、ミカエラが鳥たちに対して抱くような視点は持っていません。同じ場所にいながら、ふたりは異なるものを見ているのです。
また、ミカエラが「今何時?」と繰り返し尋ねるやり取りは、子どもの悪戯のようなものでもあります。ミカエラ自身が時計を持っていて時間を知っているにもかかわらず、弟をからかうように時間を聞き続けるという、ふたりの関係性を示すモチーフです。
──原題・英題は“La Libertad Doble / Double Freedom”です。“Two”ではなく“Double”とした意図は。
メンデス:種明かしをしてしまうのは避けたいところですが、解釈の余地を残したタイトルです。観客によって、ラストで去っていくミカエラを見て不吉な予感を抱く人もいれば、その日の午後にはまたふたりが一緒に戻ってくるだろうと考える人もいるでしょう。映画が観客の中に何を呼び起こすかという解釈に委ねられています。
インタビュー/構成:岩槻 歩(「映画芸術」編集部)