2026.11.04 [更新/お知らせ]
”インドネシア・日本における映画のアーカイブ活動”についてのトークショー CROSSCUT ASIA+部門『瞬く光の陰で』/10/28(水)

瞬く光の陰で
登壇ゲスト:トークショー:ファド・ファジ(映画製作者・右)、モハマッド・ファフリザル(アーキビスト)、岡田秀則(国立映画アーカイブ主任研究員)

 

10/28(水)CROSSCUT ASIA+部門『瞬く光の陰で』上映後に、ファド・ファジ(映画製作者)、モハマッド・ファフリザル(アーキビスト・中央)、岡田秀則(国立映画アーカイブ主任研究員・左)をお迎えし、トークショーが行われました。

 

司会:上田真之(CROSSCUT ASIA+プログラマー)(以下、上田プログラマー):映画製作者のファド・ファジさんとモハマッド・ファフリザルさん、国立映画アーカイブ主任研究員の岡田秀則さん、本日はお越しいただきましてありがとうございます。よろしくお願いいたします。
まず皆さんが、それぞれどのような形で映画の保存やアーカイブ活動に携わっているのか、簡単に一言ずつご紹介いただきたいと思います。

 

ファド・ファジさん(以下、ファドさん):ファドと申します。もう一人の研究者、マハルディカ・ユダと一緒に、このドキュメンタリーを制作しました。私は、ミスバッハ・ユサ・ビラン監督と同じ故郷で、ランカスビトゥンのバンテン出身です。このドキュメンタリーを完成させるまでには結構時間がかかりました。私がミスバッハさんにアーカイブを制作しましょうと声をかけた時に、実は断られました。なぜかというと、たくさんの方々がすでにミスバッハさんについての伝記を作られていたからです。

 

モハマッド・ファフリザルさん(以下、リザルさん):初めまして。モハマッド・ファフリザルと申します。リザルと呼ばれています。私の仕事はシネマテーク・インドネシア(東南アジア初の映画アーカイブ機関)で、資料の保存や管理に携わっています。よろしくお願いいたします。

 

岡田秀則さん(以下、岡田さん):日本国立映画アーカイブで働いている岡田と申します。私達組織は、観ていただいた映画のように、シネマテーク・インドネシアでやっているフィルムの収集・保存・活用といったようなことと同じような仕事を、日本で行う組織です。

 

上田プログラマー:本日、Q&Aはありませんが、2つの機関の間で対話していただきたいなと思っています。岡田さんが2002年にシネマテーク・インドネシアを訪問されたということなので、その時のお話からお聞きしたいと思います。

 

岡田さん:はい。随分昔の話になりますが、2002年の初め頃にインドネシアに行くことがありました。研究費がついて、1942年から45年まで日本統治下にあったインドネシアで日本人がどんなプロパガンダ映画を作っていたのか、という調査の目的がありました。その滞在の最後に、シネマテーク・インドネシアや国立の映画撮影所に訪問することができました。この映画にもありましたが、2001年にミスバッハ・ユサ・ビランさんは引退されていたので、その翌年の2002年には残念ながらお会いできず、この映画でも名前が出てきますがS.M.アルダンさんという方が暫定的な代表をなさっていました。図書室やフィルムの保存場所も見せていただいて、大変感銘を受けた記憶があります。特に、図書室は非常に私の記憶でも思い出深い場所だなと思っています。この映画の中でも、ステンベックという映画フィルムの編集台は日本から(譲り)受けたということがありましたが、あぁそうだったのか、ということを思い出したりもしました。
この映画は(岡田さんが訪問してから)10年ちょっと経った映画です。そしてさらに十何年経って現在があるわけですが、映画が作られた頃から現在までのシネマテーク・インドネシアの活動はどうなっているのか、映画の最後にミスバッハ・ユサ・ビランさんが、悲しいと言っていましたが、現在はどういう状況にあるのか、私もとても関心がありますのでお話しいただければと思います。

 

リザルさん:2025年に改修をしたので、以前より場所は良くなったと思います。シネマテックの紙がいっぱい出てきましたが、最近はそのデータを編集しております。データの編集が終わったら、それをデジタル化してセルロイドの映画を復活させたいと思っています。

 

岡田さん:この映画を作られたファドさんからも、当時の状況を伺いたいです。

 

ファドさん:私にとってミスバッハ監督は、個人的にも親交があり、これまでの作品制作やインドネシア映画の研究において、先生であり、メンターでもある存在です。また、私も多くの仲間たちと同じように映画アーカイブの研究に関心を持っており、個人的なつながりだけでなく、組織的にもシネマテーク・インドネシアと深い関係を築いてきました。現在は私自身も大学で教えており、教育や研究の立場からもシネマテークに関わっています。私にとってシネマテークは、白石隆さんが語ったように、絶えず変化する時代のなかで、過去から現在へと働きかけ、私たちに取り憑き続けるような存在なのです。岡田さんに質問があります。

 

岡田さん:はい、ぜひ。

 

ファドさん:インドネシアのアーカイブ映画には日本からたくさんの援助をいただいていますが、日本国内でのアーカイブ映画についてはどうなっていますか?

 

岡田さん:現在、国立映画アーカイブといいますが、2018年まではフィルムセンターという組織で、国立美術館の一部でした。それが1970年からなので、国立映画アーカイブの歴史は50年以上になります。その間、先達や私達も頑張って発展させてきましたが、今はフィルムの収蔵庫を持ったり、映画の様々な紙資料などを保存する場所もできたりしております。最近、急に予算が減らされて困っているとこもあるので、拝見した映画を観て、なんとなく自分達のことを思い出したりもしています。
日本は映画大国であるにもかかわらず、映画アーカイブを創立するのが遅かったという状況もありますが、インドネシアの場合で感銘を受けるのは、映画監督であったミスバッハさんが映画を作ることを辞めてまでもシネマテーク作りに精力を注いで、全身の力で築き上げていったという努力に非常に感銘を受けますね。
それから、教育者であり、物を書く方でもあるという、八面六臂の活躍というのでしょうか。私が最初にお名前を知ったのは、岩波書店から出た「講座 日本映画」という8冊になる本がありまして。その1つに、日本占領下のインドネシアの映画作り(「講座 日本映画 第4巻 戦争と日本」に収録)がありまして、それをミスバッハさんが書いていました。そこで私もお名前を知って、非常に尊敬していた人物でありました。
ですので、この映画に込められなかった想いや、シネマテーク・インドネシアでのミスバッハさんについて、今働く方々はどのようにご覧になっているのか伺いたいです。

 

ファドさん:多分、私の同年代の方々はあまり知らないと思いますが、1990年代以前の方々はよくご存知かと思います。総合的に映画史について書かれた方は、ミスバッハさんしかいらっしゃらないと思います。実は今、1970年代によく映画界に出られていた、イダ・ファリダさんのドキュメンタリーを制作しているところです。来年、公開になります。シネマテーク・インドネシアがなければ、多分私も、インドネシア初の女性監督であるイダ・ファリダさんについてのパズルを組み立てることができなかったと思います。岡田さんの質問に対して私が言えることは、ミスバッハさんはとても有名な方だということです。

 

上田プログラマー:もっとお話しを伺いたいのですが、お時間が来てしまいました。本日はありがとうございました。

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