第39回東京国際映画祭(以下TIFF)で11月2日、アジア学生映画コンファレンス 「
Wayne Wang マスタークラス」が東京ミッドタウン日比谷ホールで行われ、ウェイン・ワン監督が出席。聞き手は、本映画祭の市山尚三プログラミング・ディレクターが務めた。
『ジョイ・ラック・クラブ』『スモーク』などで知られる名匠ウェイン・ワン監督は、今年のTIFFの「ガラ・セレクション」部門で新作『
Diary of a Mad Old Man(原題)』を上映。そこでこの日のマスタークラスでは同作の話を中心に、映画を学ぶ学生からの質問に答える機会となった。
谷崎潤一郎の小説「瘋癲老人日記」を現在の東京を舞台に映画化した同作は、脳卒中で半身不随となった老人と、そのリハビリのために訪ねてくる長男の妻との関係を描く官能的なドラマ。リリー・フランキーが主人公のウツギ、ファン・ビンビンがヒロインのスースーを演じている。
もともと谷崎作品が好きだったというワン監督は、妻から勧められた「瘋癲老人日記」に魅せられ、約4年半の歳月をかけて映画化。主人公の病気や医療に関する描写が多いため、映画としての脚色は困難を極めたというが、同作にプロデューサーとしても参加している市山ディレクターの後押しもあり、完成にこぎ着けた。
当初、ブライアン・コックスやガブリエル・バーンを主人公に、そして義理の娘の役を日本人に、という構想もあったというが、ある日風邪のために悪夢にうなされたというワン監督が「日本でマーロン・ブランドが撮影するような映画になるのではないか」という予感が働いたとのことで、市山氏に方針転換を相談。以前、『女が眠る時』で仕事をし、その独特のユーモアとアドリブ力を高く評価していたリリー・フランキーにオファーを打診するに至った。
一方、義理の娘役はチャレンジングな役柄だったということもあり、そのキャスティングは難航。そんな中で中国人キャストのファン・ビンビンにオファーするというアイデアが浮上した。「以前からよく日本に来ている自分としては、近年は東京に移住する中国人も増えていますし、日本の男性と結婚する女性も多くなっているような実感があったので、それが意識にあった」ということと、過去に起こした事件をきっかけに中国の映像業界から締め出されながらも、それでもインディペンデント作品に出演し続け、演技の仕事を全うする彼女の姿に深いリスペクトを抱いていたということもあった。「彼女が演じるキャラクターは、何かに操られるような弱い女性ではなく、女性ならではの強さを持ち、逆にリリーさん演じる義父を操っているような、そんな明確なビジョンを持っていた」とその起用理由を明かした。
官能的な題材であるということもあって、本作は低予算のインディペンデント体制で制作されることになった。「自分の年齢を考えると、これから先につくれる作品は数限られてしまうだろう。その中で本作は、たとえ出資者であっても、クリエイティビティの面では口を出してもらいたくなかった。完全なアーティスティックな自由を持ってつくりたいと思っていたので、それが市山さんの支えによって叶えられてよかった」。
そのため現場では、日本の映画学校を卒業したばかりの若いスタッフを積極的に起用。現場では学生たちから出たアイデアにも耳を傾けていたそうで、「わたしは若い方の力を信じているんです。彼らはものすごい熱意を持っていて、たくさんのアイデアがそこから出てきた」と語るなど、実際に映画で採用されたシーンもあったという。
またスタッフに関しても、「日本のスタッフは事前にしっかりと準備をしてから撮影に挑む。そのことに対するリスペクトはある」と前置きしつつも、現場で急きょ変更したい箇所が出てきた時に、柔軟に動けるようなスタッフに参加してもらうこととなった。
そしてイベントの後半は、客席の若手クリエイターたちとの質疑応答に費やされた。「細かくカットを割らずに、引きのカットを多用した意図は?」という学生からの質問に対し、ワン監督は「ここ最近はマスターショット(撮影するシーンで起こる事象を最初から最後まで抑えるショットのことで、引きの映像や長回しで捉えられることが多い)を好むようになりました。マスターショットなら、俳優たちにありのままの自分でいてもらえるからです。髪を整えたりするなど、前後のカットのつながりを気にする必要もありません。自分が実際に行っているのは、2つのマスターショットを撮影し、その2つを切り替えて編集するということです」と明かした。
その上で「スタジオシステムで私が本当に嫌だったことのひとつは、あらゆる人物のクローズアップを撮影しなくてはならなかったことです。あれは正気の沙汰ではありません。例えば、夕食のテーブルを囲む5人の人物がいる場合、全員を撮影するのに2日もかかってしまう。でもこの映画ではマスターショットを使い、焦点をどこに置くかを決めるだけで、非常に素早く、シンプルに撮影できます。ですから、マスターショットは映画制作において最も重要な要素なのです。小津安二郎の作品もそうで、基本はマスターショットを使っていて、時々重要なポイントでそのキャラクターをアップにするという手法を使ってますよね」と語った。
そしてそれは何より役者にとっての自由を制限してしまうと、ワン監督は指摘する。「自由が大事であるということは、脚本こそがバイブルであるということが根底にあるんです」と切り出したワン監督は、映画「スモーク」でのウィリアム・ハートやハーベイ・カイテルとの経験を引き合いに出し、「ふたりは脚本通りに演じてくれたわけですが、同時に彼らならではの表現を加えたり、お互いに演じている中から湧き上がってくる即興的なものを出したりしながらキャラクターに命を吹き込んでいました」と説明する。
その上で「たとえば「ここでもっと怒ってください」といったような演出を彼らは完全に拒否します。偉大な役者というのは、形容詞で演出してはいけないんです。たとえばウィリアムにそういうことを求めるのであれば、ハーベイに対して、このシーンの中で彼をいらだたせるようなことをしてください、といった指示をするんです。これは役者のワークショップでは古典的な哲学ですが非常に重要なこと。だから脚本を青写真と考え、バイブル的に使うことは大事ですが、役者が自由に演技をすることができる余白を持つことは非常に大事」と自身の演出哲学を語った。
また、物語の語り口のスタイルや、バランスについて意識していることは? という問いかけには、「たしかにバランスというのは何よりも大事で、意識しないといけないもの。自分にとっては作品のビジュアルと役者の演技、そして彼らのセリフということのバランスについてはいつも気をつけています。だから自分としては、ビジュアルだけが突出しているような映画は好きではありません。もちろん映画は視覚芸術ではあるんですが、同時に人を描くものでもあるんです。映像の美しさだけを強調するような映画はとても退屈です。映像は役者の芝居に合致させないとならないんです。そのバランスが何より大事」と答えていた。
さらに「役者やスタッフなどとの、現場でのクリエイティブな衝突をどう避けるか」という悩みには、「確かにそれは難しい問題だ。撮影現場では常に意見の対立は起こりうるから。それを避けるには、事前にディテールまで徹底的に話し合うこと。それでも対立が起きることもある。たとえばそれぞれの役者が目指すものが違うこともあった場合、まずはひとりの俳優がやりたいことをやり、そしてもう一人の俳優がやりたいことをやるような、異なるテイクを撮ったりすることもあります。これもやはりバランスが重要ですよね」とアドバイスを送った。
予算やリソースなど、とかく制限が多いインディペンデント映画制作へのアプローチに対しては、「今の時代、iPhoneなどもあって、お金をあまりかけることなく映画がつくれる。つくれないという言い訳はまったくきかない。とにかく外に出て映画をつくってしまった方がいい」と力強く背中を押した。
そんなワン監督の話に熱心に耳を傾けていた学生たちに向けて、ワン監督は「自分はなぜ映画をつくり続けるのか、ということを自問し続けています。今の時代は気候変動や政治の混乱があり、人々はお金と成功しか信じなくなっている。そんな世の中で何にフォーカスを当てて映画をつくるべきなのか。自分はキャリアを通して常に“人間”というものを意識して映画をつくってきた。それはとてもシンプルかもしれないけど、だいたいは自分なりの孤独を抱えるキャラクターたちが、最終的に心のつながりを見つけるというストーリーを描いていた。それは今回の作品もそうだ。別に説教くさい話をするつもりはないですが、それがこの世界に対して自分ができるひとつなんだと信じています」とコメントし、マスタークラスを締めくくった。
第39回東京国際映画祭(以下TIFF)で11月2日、アジア学生映画コンファレンス 「
Wayne Wang マスタークラス」が東京ミッドタウン日比谷ホールで行われ、ウェイン・ワン監督が出席。聞き手は、本映画祭の市山尚三プログラミング・ディレクターが務めた。
『ジョイ・ラック・クラブ』『スモーク』などで知られる名匠ウェイン・ワン監督は、今年のTIFFの「ガラ・セレクション」部門で新作『
Diary of a Mad Old Man(原題)』を上映。そこでこの日のマスタークラスでは同作の話を中心に、映画を学ぶ学生からの質問に答える機会となった。
谷崎潤一郎の小説「瘋癲老人日記」を現在の東京を舞台に映画化した同作は、脳卒中で半身不随となった老人と、そのリハビリのために訪ねてくる長男の妻との関係を描く官能的なドラマ。リリー・フランキーが主人公のウツギ、ファン・ビンビンがヒロインのスースーを演じている。
もともと谷崎作品が好きだったというワン監督は、妻から勧められた「瘋癲老人日記」に魅せられ、約4年半の歳月をかけて映画化。主人公の病気や医療に関する描写が多いため、映画としての脚色は困難を極めたというが、同作にプロデューサーとしても参加している市山ディレクターの後押しもあり、完成にこぎ着けた。
当初、ブライアン・コックスやガブリエル・バーンを主人公に、そして義理の娘の役を日本人に、という構想もあったというが、ある日風邪のために悪夢にうなされたというワン監督が「日本でマーロン・ブランドが撮影するような映画になるのではないか」という予感が働いたとのことで、市山氏に方針転換を相談。以前、『女が眠る時』で仕事をし、その独特のユーモアとアドリブ力を高く評価していたリリー・フランキーにオファーを打診するに至った。
一方、義理の娘役はチャレンジングな役柄だったということもあり、そのキャスティングは難航。そんな中で中国人キャストのファン・ビンビンにオファーするというアイデアが浮上した。「以前からよく日本に来ている自分としては、近年は東京に移住する中国人も増えていますし、日本の男性と結婚する女性も多くなっているような実感があったので、それが意識にあった」ということと、過去に起こした事件をきっかけに中国の映像業界から締め出されながらも、それでもインディペンデント作品に出演し続け、演技の仕事を全うする彼女の姿に深いリスペクトを抱いていたということもあった。「彼女が演じるキャラクターは、何かに操られるような弱い女性ではなく、女性ならではの強さを持ち、逆にリリーさん演じる義父を操っているような、そんな明確なビジョンを持っていた」とその起用理由を明かした。
官能的な題材であるということもあって、本作は低予算のインディペンデント体制で制作されることになった。「自分の年齢を考えると、これから先につくれる作品は数限られてしまうだろう。その中で本作は、たとえ出資者であっても、クリエイティビティの面では口を出してもらいたくなかった。完全なアーティスティックな自由を持ってつくりたいと思っていたので、それが市山さんの支えによって叶えられてよかった」。
そのため現場では、日本の映画学校を卒業したばかりの若いスタッフを積極的に起用。現場では学生たちから出たアイデアにも耳を傾けていたそうで、「わたしは若い方の力を信じているんです。彼らはものすごい熱意を持っていて、たくさんのアイデアがそこから出てきた」と語るなど、実際に映画で採用されたシーンもあったという。
またスタッフに関しても、「日本のスタッフは事前にしっかりと準備をしてから撮影に挑む。そのことに対するリスペクトはある」と前置きしつつも、現場で急きょ変更したい箇所が出てきた時に、柔軟に動けるようなスタッフに参加してもらうこととなった。
そしてイベントの後半は、客席の若手クリエイターたちとの質疑応答に費やされた。「細かくカットを割らずに、引きのカットを多用した意図は?」という学生からの質問に対し、ワン監督は「ここ最近はマスターショット(撮影するシーンで起こる事象を最初から最後まで抑えるショットのことで、引きの映像や長回しで捉えられることが多い)を好むようになりました。マスターショットなら、俳優たちにありのままの自分でいてもらえるからです。髪を整えたりするなど、前後のカットのつながりを気にする必要もありません。自分が実際に行っているのは、2つのマスターショットを撮影し、その2つを切り替えて編集するということです」と明かした。
その上で「スタジオシステムで私が本当に嫌だったことのひとつは、あらゆる人物のクローズアップを撮影しなくてはならなかったことです。あれは正気の沙汰ではありません。例えば、夕食のテーブルを囲む5人の人物がいる場合、全員を撮影するのに2日もかかってしまう。でもこの映画ではマスターショットを使い、焦点をどこに置くかを決めるだけで、非常に素早く、シンプルに撮影できます。ですから、マスターショットは映画制作において最も重要な要素なのです。小津安二郎の作品もそうで、基本はマスターショットを使っていて、時々重要なポイントでそのキャラクターをアップにするという手法を使ってますよね」と語った。
そしてそれは何より役者にとっての自由を制限してしまうと、ワン監督は指摘する。「自由が大事であるということは、脚本こそがバイブルであるということが根底にあるんです」と切り出したワン監督は、映画「スモーク」でのウィリアム・ハートやハーベイ・カイテルとの経験を引き合いに出し、「ふたりは脚本通りに演じてくれたわけですが、同時に彼らならではの表現を加えたり、お互いに演じている中から湧き上がってくる即興的なものを出したりしながらキャラクターに命を吹き込んでいました」と説明する。
その上で「たとえば「ここでもっと怒ってください」といったような演出を彼らは完全に拒否します。偉大な役者というのは、形容詞で演出してはいけないんです。たとえばウィリアムにそういうことを求めるのであれば、ハーベイに対して、このシーンの中で彼をいらだたせるようなことをしてください、といった指示をするんです。これは役者のワークショップでは古典的な哲学ですが非常に重要なこと。だから脚本を青写真と考え、バイブル的に使うことは大事ですが、役者が自由に演技をすることができる余白を持つことは非常に大事」と自身の演出哲学を語った。
また、物語の語り口のスタイルや、バランスについて意識していることは? という問いかけには、「たしかにバランスというのは何よりも大事で、意識しないといけないもの。自分にとっては作品のビジュアルと役者の演技、そして彼らのセリフということのバランスについてはいつも気をつけています。だから自分としては、ビジュアルだけが突出しているような映画は好きではありません。もちろん映画は視覚芸術ではあるんですが、同時に人を描くものでもあるんです。映像の美しさだけを強調するような映画はとても退屈です。映像は役者の芝居に合致させないとならないんです。そのバランスが何より大事」と答えていた。
さらに「役者やスタッフなどとの、現場でのクリエイティブな衝突をどう避けるか」という悩みには、「確かにそれは難しい問題だ。撮影現場では常に意見の対立は起こりうるから。それを避けるには、事前にディテールまで徹底的に話し合うこと。それでも対立が起きることもある。たとえばそれぞれの役者が目指すものが違うこともあった場合、まずはひとりの俳優がやりたいことをやり、そしてもう一人の俳優がやりたいことをやるような、異なるテイクを撮ったりすることもあります。これもやはりバランスが重要ですよね」とアドバイスを送った。
予算やリソースなど、とかく制限が多いインディペンデント映画制作へのアプローチに対しては、「今の時代、iPhoneなどもあって、お金をあまりかけることなく映画がつくれる。つくれないという言い訳はまったくきかない。とにかく外に出て映画をつくってしまった方がいい」と力強く背中を押した。
そんなワン監督の話に熱心に耳を傾けていた学生たちに向けて、ワン監督は「自分はなぜ映画をつくり続けるのか、ということを自問し続けています。今の時代は気候変動や政治の混乱があり、人々はお金と成功しか信じなくなっている。そんな世の中で何にフォーカスを当てて映画をつくるべきなのか。自分はキャリアを通して常に“人間”というものを意識して映画をつくってきた。それはとてもシンプルかもしれないけど、だいたいは自分なりの孤独を抱えるキャラクターたちが、最終的に心のつながりを見つけるというストーリーを描いていた。それは今回の作品もそうだ。別に説教くさい話をするつもりはないですが、それがこの世界に対して自分ができるひとつなんだと信じています」とコメントし、マスタークラスを締めくくった。